karatachi log

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馬鹿者な若者が世の中を語るイタいブログ

古典漢文はいらない!”教養”という言葉の謎

 こんな記事があった。

bunshun.jp

例えばラテン語とその古典文学が西欧諸語やその文化圏の基層にあるのと同じく、漢文や中国古典は日本語や日本文化の成立に密接に関係した構成要素である。これらの基礎的な知識は、日本人として自立した思考をおこなえる個人を育成する上で重要であり、リベラルアーツの一環として公教育で教えられるべきだ――。
(記事より引用)
 
その通りだと思う。この記事で示された漢文を学ぶメリットは事実に違いないし、古典漢文は重要な学問であろう。さて、ネット上の議論では単純な「古典漢文教育はいる、いらない」の話として扱われているのだが、この議論を覗いてみると、古典漢文が必要な理由をこの一言で纏める人間がいる
 
教養だから。
知っていて当然だから。
 
うん。確かに教養になりうるかもしれない。しかし、教養という言葉が絶対に「古典漢文」を含むのか、はたまた、教養という言葉に他に何が含有されているのか、これは誰にも定義されていないはずだ。
 例えば私は古典漢文が教養だというのなら万有引力だって教養だろうと思う。だが古典漢文は中学生から習う分野であるのに万有引力は高校で物理を選択した生徒しか教わる機会はない。これは現状では万有引力の分野が教養とはなっていなく、古典漢文が教養として扱われている証拠の一つであろう。果たして古典漢文と万有引力の何が違うのか、明確に説明する手立てはあるだろうか?
 
 古典漢文は必要かもしれない。ただその理由を「教養だから」という言葉ですませて、ほかの分野が教養でないと定義してしまうのはあまりに乱暴で無責任な話ではないだろうか。誰かにとって大切な学問も誰かにとっては無価値に映るものなのかもしれない。自分の意見を今までの価値観:「教養」という言葉に乗せて他人に押し付けてはいけないと思うのだ。