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推薦入試は廃止しろ!大学入試改革の馬鹿馬鹿しさ

 大学入試における推薦入試の定員が全体の定員に占める割合は増え続けている。つまり、大学は推薦入試を重要視しているということで、大学は推薦入試を利用して入学してくる学生を求めているということである。さて、一般的に「推薦は楽」というイメージがあるようだ。これは正しいのだろうか。
 

「楽」な推薦入試の欠陥

 推薦入試と一口に言ってもさまざまな方式がある。大きく、「公募推薦(一般推薦)」「AO入試(≒自己推薦)」「指定校推薦」と分けられるだろう。同じ推薦といっても内容は大きく異なる。おそらく一番「楽」と言われる入試方式は指定校推薦であろう。ただし、「楽」というのは「いざ推薦入試をするときに楽」という意味である。指定校推薦の評価基準は高校の評定・出席率等であり、すなわち大学に赴いて何か試験を受けたり、集団討論をしたりなどはないということである。【※多くの大学では指定校推薦受験者に小論文やテスト、面接を課すようであるが、これはほとんど選考基準とはならず、高校での校内選考を通過すればほとんど合格と同義となるようだ。志望動機などもあまり問題にならない。】その点では非常に楽といえるであろうが、受験期に頑張るか、一年生から頑張るかの違いであって、別に何もしないで合格できるわけでは全くない。
 他の推薦方式はどうであろうか。公募推薦AO入試の違うところは大まかに言うとそれぞれ評定重視評定以外重視かの違いであろう。 また、公募推薦では高校の校長の推薦が必要であるという違いもある)つまり、評定が重要になってくる推薦方式は指定校推薦と公募推薦というわけだ。
 
 ここで大きな問題となるのは、評価の大きな基準となる評定の基準が各高校によってバラバラである、という点であろう。無論、指定校推薦の枠というのはどこの高校にもあるものではないし、各々の高校によって指定校推薦を許可する評定平均値は異なるので、一定のふるい分けはできているといえるかもしれない。だが、枠というのは東京理科大やMARCHレベルであれば割と大きな幅の学力レベルの高校に割り当てられている。つまり、わざと(自分の学力レベルに比べて)学力レベルの低い高校に入学して良い評定を取り、指定校推薦枠を獲得する(or公募推薦を受ける)戦略をとる生徒もいるであろう、ということである。一見狡いように見えるかもしれないが、これは現在の推薦制度の上では非常に賢い選択だと思われる。だってこれは正当な入学方式で、就職のときにもこの選択をしたという事実は滅多に露見しないからである。この選択を中学3年生で行える生徒は非常に賢い!非難する謂れはない。
 
 かといって現状の推薦制度に問題がないとは思えない。繰り返しになるが、高校のレベルによって評定の付け方の基準が異なるというのは、推薦の基準がバラバラであるということだ。これは一般入試で言えば生徒によって問題の難度が異なるようなものだ。これは大きな問題である。もはや入試制度として崩壊しているといっても過言ではない。また、指定校推薦の枠は毎年変わる。故に、入学前に狙っていた大学・学部が高校3年次には消滅している可能性も十分にあるのだ。この場合、その生徒はなんとなく行ける大学・学部に行くことを選択する可能性が高い。そうなると途端にこの生徒は賢くなくなって、ただ行けるとこに行ったアホ学生になるわけだ。
 

駄目推薦の代名詞だったAO入試はどうだろうか 

 では、AO入試はどうだろうか。AO入試では一般的に高校の評定は評価基準の大きなウェートを占めないとされている(実情はわからないが)。つまりAO入試は試験場でのパフォーマンス(面接、小論文etc)が最重要視される入試であり、とりわけその大学、その学部に入学したい理由をどれほど語れるかが大きな選考基準になるようだ。私は特に「その学部に入学したい理由」を語らせるのは非常に素晴らしいと思うのだ。映画「ビリギャル」を見てしまった方はいらっしゃるだろうか。あの映画の主人公は慶應大学に行きたい!という志望動機で様々な学部を受けたが、その学部志望動機はなく、受けられる学部を受けたらしいのだ。これで感動を呼ぼうというのだから安直にもほどがある。(主人公が受験した)文学部と総合政策学部では学べる内容は大きく違うはずで、決して志望学部として両立しないはずだ。なのに受験して、合格すればやりたくもない学問を学ぶというのは目的をもって大学を志望した人間からすれば意味不明、と見える。こういうトンデモ学生を減らすためにも、学部志望理由を入試で発表させることは非常に重要だと思う。もちろん、行きたくもない学部の志望動機を高らかに語る不届きものもいるだろうが、本当にその学部に行きたい学生の心意気には勝てないはずである。その点でAO入試は素晴らしい入試方法ではないかと思う(私はAO入試は利用していないが)。だが、いくらなんでも学力試験なしというのはいただけないと思う。一部の大学ではセンター試験を受験することを必須としたり、センター試験で規定の点数を取らないと不合格となる大学もあるようだ。そのような学力検査は必要だと思う。
 

お役所仕事の大学入試改革・(B)Fラン大学の生きる道とは

 大学入試改革の名のもとでセンター試験が廃止され、英語外部試験の活用や記述問題の導入が模索されているが、大学入試改革で最も改善すべき点は「学びたい学問を学んでいない学生がいる」点ではないだろうか。私立大学の中には入試試験料をたくさん徴収するために一回の試験で複数の学部を受験できるシステムを取り入れている大学もある。違う学部とは何事だろうか。大学とは専門的に学問を学ぶ場所であって違う学部を一度に受験できるというのは訳が分からないだが。
 求められる入試制度改革とは現在の入試体系に加えてAO入試の成分を取り入れるものである。「入試=学力試験」となってはならないはずである。「入試=入学者選抜」なのであって、学力がいくら高かろうがその学問に興味がないのであれば、多少学力が低くてもその学問に大いに興味を持った人に入学機会を与えたほうが良いのではないかと思う。そのような入試を取り入れることによって、高校生が自分の学びたい学問を主体的に探し、偏差値偏重の受験戦争にも変化を与えるのではないかと思う。一般に言う「総合大学」とは「人気学部を取りそろえた大学」という意味である。人気学部もいいが、さらにマニアックな学部学科があってもいいし、そういうマニアックな勉強や研究をしたい学生はたくさんいるはずだ。そういうマニアックな学部を持つべきは、今困窮している地方の弱小私立大学だ。「総合大学」の真似事をしても受験生が集まらないのは当然で、かといって横文字だらけの抽象的な学部もまたBFランク大学の烙印を押されてしまうものだ。近畿大学のマグロのように、何かコレだ!というようなものを持った大学が増え、そのような大学を目指す高校生が増えるような大学改革、そしてそれを生む大学入試改革が求められているのではないだろうか。
 

バカしかネットに書き込まない

 ネットに書き込みたい心理とは、「議論したい」という心理だと思うのだが(むろん感想を作者に伝えたい、とかもあるが)、違うのだろうか。日常に起こる様々な問題が共有され、それへの意見が拡散しやすくなったネット社会。しかし、問題が共有される一方で、真っ当に「議論」されている問題はあまりに少ない。

 

 ネット上における議論の場とはつまり様々なインターネットサービスのコメント欄であったりTwitterなどのSNSなのであるが、そこに書き込む人の多くが行っていることは議論でもなく喧嘩でもない、「レッテルの貼り合い」が主だ。これは特に政治的話題に多い。政治的考え方の違う人間を左翼だとが右翼だとか言ってさも違う生物種かの如く扱い、その政治的主張への反論を伴わない書き込みをする。これは「議論」ではない。

 私はこの「考え方が何となく似通っている人間を何となく名前を付けてくくっておこう」という考えはよくないと思うのだ。例えば、自民党の中にも個々の政策に対する意見の違いを持つ人間がいるように、左翼右翼と括られた人間の中にも考え方の違いが勿論ある。人間を一括りにしてしまうことは個々の意見をつぶし、反対の意見を持つ人間が貼りやすいレッテルを与えてしまうことにしかならない。何の意味もないのだ。

 議論とはすなわち譲歩する点の見つけ合いである。他人の意見なんて自分の意見と違って当たり前である。それを知るのが議論の目的ではないか!彼らレッテルを貼る人間は譲歩をしない。自分の考えの正当性を疑わず、ただ頑として自分の意見で相手を殴るだけだ。そこに何が生まれようか?

 

 ではレッテル貼りに奔走するネット民とはすなわち誰か。バカである。どんな問題も考えることで何らかの解決策を思いつくことはできる。のに、思いつかない。これはそもそも考えていないということだ。ただレッテルを貼り、蔑んだ側に立ったと思い込んでいる人間は考えないバカという他ない。

 あなたはバカになっていないだろうか?